動物福祉と環境エンリッチメント

「動物福祉」という理念

「動物福祉(アニマル・ウェルフェア)」、ということばをさかんに聞くようになった。動物福祉と、その理念の具体的な実践としての「環境エンリッチメント」について解説したい。

まず動物福祉という用語を説明する。そのためには、対置される理念としての「動物の生きる権利(アニマル・ライト)」から解説するとわかりやすいだろう。ヒト以外の動物にも、ヒトと同様の生存権を認めようという考え方である。ヒトの生命を奪ってはならないのと同様に、ヒト以外の動物の生命も奪ってはならないという主張である。いわゆる「菜食主義(ベジタリアン)」という理念の背景にも同様の主張がある。しかし「動物の生きる権利」を主張する立場は、食事だけではなく、ヒト以外の生命をヒトのために利用することを一般に拒否する。牛や豚を食べないだけではない。たとえば医学実験にマウスやヒヨコを使うのも拒否する。もちろん、どのような主張にも色の濃淡はあるから、どこまでがという厳密な線は引けない。しかし、「動物の生きる権利」と一般に呼ぶ理念は、ヒト以外の動物に生存権を認め、殺生を禁ずる立場だと言える。それに対して「動物福祉」という理念は、究極のところで、ヒトがヒト以外の動物の生命を犠牲にすることを認めている。そうせざるをえない2つの理由がある。第1に、ヒト以外の動物をヒトが利用するのはヒトの本性だからである。草を草食獣が食べ、その草食獣を肉食獣が食べる。自然界にはそうした「食物連鎖」がある。ヒトもその連鎖の一環である。ヒトは霊長類の一種であり、中でもいろいろな食物品目を食べる雑食化した種として進化してきた。本来、果実も葉も肉も昆虫も食べるように体のしくみができている。第2に、そもそもヒト以外の生命を犠牲にせずにヒトは生きていけない。同じ生命なのに、なぜ植物は利用してよくて動物はいけないのか。同じ動物でも、なぜ脊椎動物だけが生存権の対象になるのか。「動物の生きる権利」は一見してわかりやすい主張だが、こうして突き詰めて考えてみると、主張そのものの論理に整合性がない。「動物の生きる権利」が主張したいことを、実際のヒトの進化や本性に照らして合理的に再解釈してみよう。妥当な理念は、「ヒトはヒト以外の動物の生命を、自らの暮らしのために利用するのはやむをえないが、むやみに奪ってはならない」ということだ。さらに、「ヒト以外の動物の生命を尊重するだけでなく、生きている暮らしそのものを尊重する」、それが動物福祉という理念である。

「心理学的幸福」とその規準

では、動物福祉という理念のもと、ヒト以外の動物の生きている暮らしそのものを尊重するとは、具体的にどういうことだろうか。簡潔に言うと、「ヒトに利用ないし飼育される動物の側の立場からみて幸福な暮らしを実現する」という表現ができる。そうした、動物福祉という理念のもとに、設定した目標を「心理学的幸福(サイコロジカル・ウェルビーイング)」と呼び習わしている。
 ヒトとヒト以外の動物の関係は多様だ。ヒトは野生動物を利用する。そのほかの利用を、一般に広い意味での「飼育(キャプティビティー)」と理解しよう。飼育には大別して4つの形態がある。第1は動物園の「展示動物」である。野生動物を飼育展示する。第2は「ペット(伴侶動物)」である。ヒトは数千年をかけて野生動物を飼い慣らし家庭でともに暮らしてきた。イヌやネコや金魚である。盲導犬や介護ザルなどもこの範囲に入る。第3は「家畜」である。野生動物から累代にわたって品種改良し主に食料にしている。ウシやウマやヒツジやニワトリである。第4は実験動物である。医学実験などのために特定の性質をもつように動物を改変した。本態性高血圧ラットやヌードマウスなどである。
 こうしてヒトが利用している動物は、展示動物、ペット、家畜、実験動物に大別できる。そしてどのばあいにも共通して、飼育される側からみた「心理学的幸福」がある。あえて「心理学的」というのは、「物理的」あるいは「生理的」ということばと対置した意味だ。幸福は、物理的にも生理的にも測れない。心理的なものである。身体的健康は幸福の条件のようにみえるが、身体的に健康であれば幸福かというとそうでもない。
そこで問題になるのは、心理学的に「幸福」をどう定義するか、どう客観的に測るかである。わたしは、以下の2つの行動学的規準を提案してきた。
1)その動物種がもっている本来の行動レパートリーをできるだけ満たすようにする。
2)その動物種がもっているそれぞれの行動レパートリーの時間配分をできるだけ本来のそれに近づける。

行動のレパートリーと時間配分

 「心理学的幸福」を、行動のレパートリーと時間配分によって、客観的に評価しようという提案である。動物園のように野生動物を飼育する場面で、こうした行動から規定した「心理学的幸福」を考えてみよう。多くの動物園で飼育され、野生種としてもなじみの深いニホンザルを例にとる。
 第1に、行動レパートリーを考えよう。ニホンザルは毛づくろいをする。とても重要な行動レパートリーである。交尾もする。空中高く木に登る。木をゆする。水につかる。ニホンザルを個別ケージで飼うのはよくない。なぜなら、なんとなく「かわいそうだから」、ではない。本来の行動レパートリーが満たされていないからである。毛づくろいや交尾をするにはなかまがいる。飼育環境に木も水も必要だ。木を植えられないなら、かわりに空中高く登れるような構築物が不可欠である。「サル山」と呼ばれるコンクリートの山は、こうした環境からほど遠い。工事現場の足場を組んだような環境の方が、行動のレパートリーをまだしも満たすことになる。
 第2に、行動の時間配分を考えよう。ニホンザルはいろいろなものを食べる。野生では一日の大半の時間を、口をもぐもぐ動かし何かを食べて過ごしている。食べ物を求めて移動する。野生とくらべて飼育されているサルは、食事の時間が圧倒的に短い。移動にかける時間も少ない。逆に、じっと動かないで休息している時間が長い。時間配分を本来のそれに近づけるためには、1)もっと食事の時間を長くし、2)運動をさせ、3)休む時間を減らす、というくふうが必要だとわかる。
 動物園の展示動物について述べた。ほかの飼育動物のばあいも、展示動物にとっての野生と同様な意味で、ひとつの目標となるような「本来のくらし」を想定できる。犬であれば犬の、現在の性質ならびに進化の歴史をさかのぼって捉えられる本性がある。問題は、ではどうやって、本来の暮らしにできるだけ近づくように、その行動レパートリーや行動の時間配分を変化させるかである。それが「環境エンリッチメント」と呼ばれる具体的な方策である。

環境エンリッチメント

環境エンリッチメントは、「動物福祉という理念のもとに、心理学的幸福(という客観的に測定可能な目標)を実現するためにおこなう、飼育環境を豊かにする試み」と定義することができる。
 飼育環境とは、広い意味で、その動物とヒトとが関わる世界そのものをさしている。したがって、以下に2大別できる。1)物理的環境:ケージや運動場といったモノそのものの側面。2)社会的環境。動物の置かれている環境の中で、同種の他個体やヒトとの関わりという側面である。したがって環境エンリッチメントとは、飼育動物の物理的環境や社会的環境を変化させることによって、本来のくらしに近い行動のレパートリーと時間配分を実現する方策のことだといえる。飼育霊長類のばあい、動物園の飼育スペースを野生の遊動域と比較すると、広さで約5千から1万分の1の値になる。霊長類の多くは樹上性なのに、ほとんどが観客の視線の高さすなわち地上にしか行き場が無い。空中への高さが足りないのだ。こうして、本来の行動レパートリーである、空中高く登ったり、飛び降りたり、広く動き回ったりという行動を発現することができない。したがって、物理的側面でいえば、より広く高くすること、とくに高い空間の利用を促すくふうが現在は欠けている。
社会的環境でいえば、多くの霊長類において同種の他個体との接触は不可欠である。なかまがいて、社会があって、はじめて本来の行動を示すことができる。したがって、個別飼育や、少数での飼育は適切でない。どうしても同種の他個体が用意できないばあいは、飼育者がそのかわりをするのがよい。毛づくろいをする。毛づくろいをされる。一緒に遊ぶ。そうしたくふうである。

なかまがいて木と水と高さのあるくらし

わたし自身、飼育下と野外と、その双方でチンパンジーの研究をしてきた。そうした経験をもとに、飼育チンパンジーの環境エンリッチメントに取り組んでいる。観客こそいないが動物園と同じ問題を抱えている。現在、京都大学霊長類研究所には、1群11人のチンパンジーが暮らしている。そこでの環境エンリッチメントの具体的な取り組みを以下にかんたんにまとめてみた。空間利用行動、採食行動、社会行動の順に述べる。

1)人工樹木を作り高い空間を利用させる。彼らは本来、起きている時間の半分を樹上で過ごす。高い木の導入はむずかしい。かわりに鉄柱と木組みを導入した。

2)本来、夜は樹上で寝る。そこで寝室の側壁の高い位置に丸太の止まり木を作った。

3)植樹した。本来、木を食べたり揺すったりする。現在約60種・400本が生育している。調査の結果、植物の科ごとに、食べるか食べないかがわかっている。

4)本来、起きている時間の半分近くを採食に費やす。ところが動物園ではだいたい1日の5―10%の時間しか口を動かしていない。本来の時間配分に近づけるため、1日2食を3食ないし4食にした。さとうきび、椎、樫の枝など、時間のかかる食べ物も導入した。

5)野生では、約200種の食物品目を食べる。毎週1回八百屋で買い物して買い足して、できるだけ多様な食物品目を与えるようにした。年間100品目をめざしている。

6)採食時間をのばすには、「道具」を導入するのが効果的だ。「葉を使ったジュース飲み」「棒を使ったハチミツなめ」「石を使ったナッツ割り」などが有効である。変わった道具としては「お金」がある。お金を与え、そのお金を自動販売機のところにまでもっていくと、食べ物が買える。かんたんなことなので、すべてのチンパンジーがおぼえた。こうした道具を使用しないと食物が手に入らないから、採食時間が長くなる。

7)「認知実験」の導入も採食時間をのばす。問題をといたらはじめてごほうびがもらえる。一般に、飼育動物は与えられる食物を待つしかない。ところが認知実験場面では、自分が働けば確実に食物が手に入る。ほんの少量でも自分の努力で食物が手に入るばあい、嬉々として自発的に参加するようになる。さらには、実験者とのあいだの社会的関係があれば、食べ物といったごほうびがなくても勉強するようになる。

8)一日のうち、毎朝・毎夕、一人一人のチンパンジーと過ごす時間をもつ。本来、チンパンジーは少なくとも20人くらいの集団を基盤にもっている。社会的接触が足りない部分はヒトが補えばよい。

以上、かんたんに取り組みを紹介した。環境エンリッチメントのくふうにかんする資料が用意してある。ご希望の方は連絡されたい。